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大阪高等裁判所 昭和56年(ネ)1378号 判決 1984年4月27日

控訴人

赤木円

控訴人

赤木聡

右両名法定代理人親権者

赤木美栄子

控訴人

赤木美栄子

右三名訴訟代理人

伊多波重義

被控訴人

森敬

右訴訟代理人

前川信夫

主文

本件控訴をいずれも棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実《省略》

理由

一控訴人ら主張の請求原因1項の事実、及び同2項の事実のうち、「亡則彦が昭和五〇年三月三日午前一〇時頃、胃痛を訴えて被控訴人の営む診療所を訪れ、被控訴人との間に診療契約(以下「本件診療契約」という)をした事実」は、当事者間に争いがない。

二<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。

1  亡則彦(昭和九年八月一七日生)は、昭和五〇年三月二日夜、京都で友人と飲酒して同夜零時三〇分頃帰宅し、胃の痛みがあつたが深夜であつたのでそのまま就寝し、翌三日朝出勤途中医師の治療を受けるべく、同日午前九時四〇分頃、控訴人美栄子(妻)及び同聡(長男)と共に、被控訴人の経営する診療所(大阪府枚方市で昭和四四年七月開業。専門は内科・小児科。医師は被控訴人一名。準看護婦二名常勤)を訪れた。

2  被控訴人は、同日午前一〇時過頃則彦を診察し、その結果則彦の疾病は、平素胃が弱かつたところに風邪ぎみで、胃痛が生じたものと診断したうえ、複合レジタン(鎮痛剤。被控訴人は年間一〇本ないし一五本治療用に使用していた)の注射がよいと判断し、準看護婦森島博子(以下「森島看護婦」という)に命じて本件注射をしたが、右の診断に当つては、「注射の後で異常を感じたことはなかつたか。昨夜はよく眠れたか。」等の一般的な問診をしたのみで、皮内反応検査をすることなく複合レジタン(バレタメート・ブロマイド=抗コリソ作動薬、及びスルピリン=所謂ピリン系解熱鎮痛剤、の配合剤で劇薬。劇薬であることについて当事者間に争いがない。)を静脈注射することにした。

その理由は、則彦について、被控訴人は、「昭和四八年二月二〇日、同四九年四月一五日、同五〇年一月一七日」の三回診察治療しており(いずれも風邪)、そのカルテ(乙第一号証)によると、被控訴人は則彦に対し、右一回目はアミノバール(四cc)を、同二回目はメチロン(四cc)を、同三回目はグリンケン(一cc)を、それぞれ前記のような一般的な問診をしたうえで筋肉注射したが(これら薬剤について、被控訴人は、いずれも「ピリン剤」であると思つていた)、何ら異常はなかつたと推認(則彦は各一回きりで、再受診していない)したこと、及び被控訴人は、従前「複合レジタン」を年間一〇ないし一五本治療用に使用してきたが、一件もショック症状を呈した事例がなかつたこと等によるものである(但し、<証拠>から判断すると、右三種の薬剤は、いずれも「ピリン剤」であるかどうか疑問であり、特に、二回目のメチロン(四cc)は、「ピリン剤」ではないと認められる)。

3  森島看護婦は、被控訴人の指示により、同日午前一〇時過ぎ頃、則彦に対し複合レジタン五ccをブドー糖液二〇ccと混合して注射器に入れ、その針を則彦の左肘静脈に刺して注射液を3ccないし4cc入れたところで則彦に対し「痛くないか。途中から気分が悪くなつたら早めに言つて下さい。」と言い、さらに注射液を半分位入れたところで「気分悪くないですか。」と聞いたところ則彦は「どうもない。」と答えたので、さらに注射をつづけた。注射終了の直前に則彦は「口が渇く」と訴えたが、被控訴人は、控訴人聡(風邪の症状で則彦より二、三分遅れて控訴人美栄子と共に診察室に入つた)を診察しながら「その薬はきついから、そういうことがある」と答え、森島看護婦は約二分ないし三分位時間をかけて静脈注射をし、注射液を約一cc残して針を抜き静脈注射を完了した。右注射完了直後頃、則彦は立ち上つたが「胸が苦しい」と訴えたので、被控訴人は「その薬はきついから、そんならちよつとベッドで横になつていかれたら」と指示した。そして、則彦の「水がほしい」という訴えに、被控訴人の指示で看護婦がコップに水を汲んできてベッドに座りかけた則彦に飲ませたが、一口飲みかけて吐き出し、やがてケイレンを起し、意識不明の状態になつた。これを見た被控訴人は、驚愕し、「救急車、救急車」などと口走りながら、則彦に跨り約七分後に救急車が来るまで、抗ショック剤等の注射をすることなく、心臓マッサージないし人口呼吸を繰返した(この間美栄子は、舌を噛まないように指にガーゼを巻いて則彦の口に入れ、頬をたたいたりしながら「どうしたの、どうしたの」と叫んでいた)。

4  則彦は救急車で、森島看護婦と美栄子が付添い酸素吸入を継続しながら近くの協立病院に移され、同病院で直ちに抗ショック剤、強心剤等の注射(ボスミンの心臓内注射等)及び必臓マッサージ等の応急措置がとられたが、血圧維持、自発呼吸の回復に至らず、本件注射から三時間余り経過した同日午後一時三四分死亡が確認された(死亡の事実は当事者間に争いがない。)

則彦の死体は、大阪医大法医学教室松本秀雄医師の執刀で司法解剖(被控訴人に対する業務上過失致死被疑事件)に付された結果、「心臓部に七個の注射痕(協立病院での注射)、左肘静脈に一個の注射痕(本件注射)」があり、組織諸臓器に異常はなく(但し、胸腺には年令に比し実質を相当に残存し、脾臓がやや大きい体質であつた)、則彦の死因は、本件注射による薬物性ショック死であることが判明した。

5  複合レジタン(注射液一管中、バレタメート・ブロマイド一〇ミリグラム、スルピリン一グラムを含有)の使用上の注意として、「(イ) 患者本人又は血族が、アレルギー症状の既往歴を有する等の場合は投与しないこと、(ロ) 過労、飲酒酩酊等身体状態が変化している患者、虚弱体質者等には慎重に投与すること、(ハ) 本剤に含有されているスルピリンの投与により、まれにショック様症状、発疹等の過敏症状を起すことがあり、観察を十分に行い、血圧低下、顔面蒼白、脈膊の異常、呼吸抑制、発疹等の症状があらわれた場合、投与を中止すること、(ニ)本剤の投与により、口渇き、悪心、起立性低血圧等の症状があらわれる例があること」等が記されており、その副作用として、「(イ) 配合剤の薬理作用に基づくものとして、パレタメート・ブロマイド分としては、『抗コリン作動に基づく反応で、口渇、散瞳、頻脈、顔面蒼白、排尿障害、便秘、発熱等であり、更に極くまれであるが、常用量で大発作様の症例が報告されている。なお、右の事項は、バレタメート・ブロマイドそのものによるものではなく、抗コリン剤に全般的なものである。しかし、この傾向は、本系薬剤の全てにみられるもので、一剤のみが特徴的な挙動を示さないことも本系薬剤の特徴といえる。なお、本剤(複合レジタソ)は、四級アンモニウム化合物なので、自律神経節遮断作用があり、注射剤であればこの作用が比較的強く現われる可能性がある。』(ロ) アレルギー反応としては、バレタメート・ブロマイド系薬物には比較的みられないが、スルピリンについては、本剤も含め、ピラゾール系の代表的副作用機序として有名で、徐脈、種々の発疹(薬疹)で共に遅発型のアレルギーといわれている。しかし即時型の症状も否定できない。」等が認められ、このことは、当時論文等で指摘されている。

他方、複合レジタンは、鎮痙、鎮痛剤として治療効果があり、グレラン製薬株式会社において、昭和三九年八月から同五一年九月(発売中止は同年三月)まで、約六四六万本が製造されており、右製薬会社で入手した軽微な事故を除く薬物性ショック例は二例で、いずれも迅速的確な処置により重大事故に至らなかつた。

6(一)  証人(鑑定書作成者)の証言によると、

(1) 一般に、薬物性ショックを惹起しやすい要因としては、「(イ)体質の異常(胸腺の実質性の残存、脾臓が通常人より大きいこと等)、(ロ) 体調不良(過労、睡眠不足、飲酒等)、(ハ) 内臓疾患等(肝臓、腎臓の障害、妊婦等)、(ニ) 遺伝体質的なもの」等が考えられる。

したがつて、通常、薬物性ショックの事前回避方法も右に応じ、問診と皮膚反応検査(微量の当該薬剤成分をもつ液体を皮内に注射して反応を確める)の方法がとられている。

そして、同種のピリン系薬剤でも、普遍的に問題となりうる体質もあれば、わずかな構造的な違いから、同じピリン系でありながらそれほどショック原因とならない場合も屡々ある。したがつて、同じピリン系の薬剤でも、一概に前の投与で異常がなかつたから、これも安全だ、という判断の目安には必らずしもならない。

(2) 薬剤投与効果は、経口投与、経皮投与に比し、経静脈投与が迅速であること、したがつて、一概に言えないが、薬剤ショック発生の危険性も大である。

(3) 偶薬物性ショックの発現は、結局、「心臓機能の異常と、呼吸障害」とであり、したがつて、ショック発生の場合には、迅速に右の「心臓機能の異常と呼吸障害」を正常化するよう処置するべきである。そして、これらは、医師として一般的に常識とされている。

(4) 本件の場合、(イ) 致死的な意味で主役を演じたのは、複合レジタンに含まれる「スルピリン」であると判断される。(ロ) 「スルピリン」は、ショック発生については遅発型が多いが、即時型のアレルギーも起り易い、(ハ) 亡則彦の死亡時刻は午後一時三〇分過ぎとされ、本件注射後約三時間余り後に死亡が確認されているが、前記体質の異常のため、則彦は本件注射をしたとたん既に致死的な意味をもつ重篤な状態に陥つたのであつて、ショック発生後に抗ショック剤・強心剤等を注射しても救命することはできなかつたものと認めるのが相当であつて、実際に、細胞レベルでの問題ではなしに、心停止や呼吸停止があつたのはもつと早い時期、注射後三〇分とか、そういつた時間であつて差支えないと認められる。

(二)  原審裁判所の照会に対する厚生省薬務局安全課長からの回答書添付の文献<名尾良憲「治療薬による副作用とその対策」中外医学社刊三三頁以下>によると、「ピラゾロン誘導体(アミノピリン、スルピリン)を含有する、いわゆるかぜ薬によつてショック症状がおこることがある。内服後数分にて、痒感を訴え、胸内苦悶、脈拍頻数、顔面蒼白となり、血圧が著しく下降し、意識が喪失する。処置が遅れると死亡する。」として、迅速的確な処置により回復した例が紹介されている。

以上の事実が認められる(被控訴人は、「抗ショック剤ないしは強心剤等の筋肉注射をした旨供述するが<書証><前掲松本医師の鑑定書、同鑑定において、司法解剖に当り、注射痕は慎重に検分された〔鑑定目的も、(一)損傷の部位、性状、(二) 用器の種類及びその用法、が指定されている。〕が、被控訴人の供述する注射痕は発見されていない。被控訴人が大阪府医師会長あてに昭和五〇年三月一四日作成提出した「医事紛争事故報告書」にも、「抗ショック剤、強心剤等の注射をした旨の記載はない。>等に照らして措信できない。また、カルテには、「抗ショック剤、強心剤」の記載があるが、これは、被控訴人自ら「後に記入した」旨供述するところである)。

三1  右認定の事実によれば、次のことが明らかである。

本件注射に際し、被控訴人が則彦に対してした問診は前記二の2の範囲内であり、皮内反応検査等はしなかつた。

しかしながら、(1) 被控訴人は本件注射をした日に則彦を初めて診察したのではなく、それまでに三回にわたり診察をしており、その都度、前記のような一般的な問診をしたうえ二の2に記載のとおりアミノバール(四cc)グリンケン(一cc)等を筋肉注射して治療したが、いずれもショック発生等の異常は認められなかつた。そこで被控訴人としては、則彦に「体質の異常」はなく、薬物性ショック回避の方法としてそれ以上の問診等の措置をとらないで本件注射を実施しても危険はないものと判断していた。(2) 複合レジタンの鎮痛効果は大きく、被控訴人は従前から一年間に一〇本ないし一五本を治療用に使用してきたが、ショック発生等の異常は一度も認められなかつた。(3) 複合レジタンを製造しているグレラン製薬株式会社は昭和三九年八月から同五一年九月までの間に約六四六万本を製造したが、同社が入手した軽微な事故を除くショック例は二例であり、いずれも適切な事後措置により回復している。

2 本件注射は複合レジタンの静脈注射であることを考慮すると、薬物性ショック発生回避の方法として被控訴人のとつた前記措置は、問診の内容ないし皮内反応検査等をしなかつたこと等をめぐり、必ずしも十分ではなかつたとの批判の余地があり得るであろうと考えられる。しかし前記の1の諸点に、則彦の「体質の異常」を外部から確知する方法の困難性、本件注射の実施方法の態様、被控訴人の診療所の規模その人的物的構成等、その他本件における事実関係を考慮するときは、本件においては、いまだ被控訴人に本件診療契約に基づく債務の不履行があると認めるのは相当でなく、また、被控訴人の右行為が不法行為を構成する違法なものであると認めることはできない。

四本件注射に基づくショック発生後の措置として、被控訴人は救急車の到着まで約七分間、則彦の身体に跨り心臓マッサージと人工呼吸に終始し、抗ショック剤・強心剤等の注射をしなかつたことは前記のとおりである。

しかし被控訴人としては、医師一人という規模の小さい個人経営の診療所で今まで経験したことのない薬物性ショックの突発的な発生に驚き、突嗟の措置として、ショックによる心臓機能の異常と呼吸障害を正常化するため前記の心臓マッサージと人工呼吸に専念したのであつて、抗ショック剤・強心剤等の注射をする余裕がなかつたものと認められる。そして前記認定のように、則彦は年令に比し胸腺が実質性の部分を残しており脾臓が通常人より大きく、そのためある種の薬剤に対し異常に過敏に反応し易い素質(体質的な異常)をもつていたため、本件注射をしたとたん既に致死的な意味をもつ重篤な状態に陥つたのであつて、抗ショック剤・強心剤等を注射しても救命することはできなかつたと認められることは前記のとおりである。

右の事実、その他前記三記載の諸点を考慮するときは、被控訴人に対し債務不履行ないし不法行為の責任を肯定することは相当でないと認められる。

<以下、省略>

(栗山忍 矢代利則 河田貢)

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